飯島企画業務日誌

『デッドライン』千葉雅也

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おはようございます😉

 

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『デッドライン』千葉雅也
修士論文の”デッドライン”が迫るなか、「動物になること」と「女性になること」の線上で煩悶する大学院生の「僕」。高校以来の親友との夜のドライブ、家族への愛情とわだかまり、東西思想の淵を渡る恩師と若き学徒たる友人たち、そして、闇の中を回遊する”魚”のような男たちとの行きずりの出会い―。21世紀初めの東京を舞台にかけがえのない日々を描く。

現代社会の苦しみはデッドラインにおける苦しみである。納期、テスト、受験、就職、結婚、出産、寿命など。
デッドラインという締切に対して哲学者千葉さんの自伝小説的に、その対処法を指南してると読めば第3者として読めるだろう。
ゲイの大学院生の「僕」が主人公で、他者と関わることを難しく思っているような感じには見えないが、いまひとつ深く他者と関わることもない。
“なる”ということを哲学的に考える。荘子が魚が楽しく泳いでいるのを見て、「隣の人が魚の気持ちは分からない」と答える。近くにいることで、”荘子は魚になり”、”魚は荘子になる”同一化するのではなく、別のものが同じものに”なる”ということ。
ドゥルーズやモースの思想をはさみつつ展開される日常。人間と動物、男性と女性。二項対立で物語が進んでいく。

現代哲学を自分の問題として引き受ける事として”ゲイ”としての生き方とも接続もされる。
逃走線や生成変化という概念の実践。従来の男女関係という閉じた循環の中から逃走線を引き、同性愛者としての自分自身を解き放つ。主人公の住む久我山が、「ノンケ」の友人たちの円環(山手線や環八)からの久我山が逃走線のような場所であるという設定は面白い。

只の好感ではなく、相手を目で追い求め、触れたいと願う感情、心と体を突き刺す様な感覚とは。社会の枠の中で自分がそう思われている存在に抵抗してか、自らの嗜好の思いのままに任せてか、夜の街を徘徊しながら好きな男を求める。自己肯定し、他者から離れ、他者を求める姿に懐かしさを感じる。

ドライなように見える主人公の同性との関わりは、空気を読むような繊細で微妙な駆け引きがあり、ここでもパートナーを1人に決められない、その場しのぎの肉体関係で気を間際らしている。
恋愛対象が男性だが、女性の姿になりたいと言うわけではなく、ただ女性に「成りたい」と感じる部分が終盤の三人称に表れていた。

主人公は哲学的にその瞬間”魚”かもしれない、”蝶”かもしれない、”猫”かもしれない、”動物”かもしれない、”少女”かもしれない、”ゲイ”かもしれない、……でも、”男”でも”本物の自分”でもない。少女のしっぽという幻想を追いかけ続ける自己を現実的に認知して、初めて、自分の回遊するべき正しい道がレールのように目の前に敷かれてなどいないことに気が付き、円環をほどき、振動する線になって、「僕」は本当にそうなれたのだろうか。自分で自分を越える自分自身が、己のデットラインになるのだ。
それは、自分が新たな円環を生みだす線になるということだろうか?
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