飯島企画業務日誌

『正欲』朝井リュウ

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『正欲』朝井リュウ
アセクシャル(無性愛)パンセクシャル(両性愛)ポリアモリー(関係者全員の合意を得たうえで、複数の人と恋愛関係を結ぶ恋愛スタイル)、これら以外の性癖(多数派が名付けた言葉)を持つ、あらゆる人達の生きずらさ寄り添う、この様な言説に彼らは苛立ちもしない。その程度の視野で持て囃される人が居ると言う現実を、ただ白々しく思うだけだ。生きずらさ寄り添うなどと献身的な姿勢をアピールした数秒後には、それが自分のやりがいに繋がると嬉々として語る。あくまで自分は導く側に居るのだと言う意識に吐き気がする。
会話が成立していても、対話は成立しない。自分以外の人間が、どう言う世界を生きているのか?嫌でも感じてしまう。感じたく無くとも思い知らされるものが、この世界の中には沢山ある。人生に季節がある人に向けた、”明日も生きている”と思う前提に立っている人だけに向けられた言葉が、心の中を流れていく。既に言葉にされている誰かに名付けられている苦しみが、他人にに明かして共有して同情して貰える様なもので心底羨ましい。脳の中の沸騰している部分からは、どんどん言葉が溢れてくるけれど、それを瞬間冷凍させるくらい、どんな言葉で説明した所で”無駄だ”、と言う巨大な諦めがそのすぐ傍らにある。そもそも、誰かに解って貰おうと思うこと自体が無駄なのだ。
たった1つの事を隠しているだけなのに、それを隠すための言動を続けているだけなのに、何処かで何かが徹底的に間違う。いつだって、人間関係の先にある四季に辿り着く前に、全てが終わる。性的対象は只それだけでの話では無い。根だ。思考の根、哲学の根、人間関係の根、世界の見詰め方の根。遡れば、生涯全ての源にある。その事に多数派の人間は気付かない。気付かないで居られる幸福にも気付かない。他者が登場しない人生は、自分が生きていく為だけに生きていく時間は、本当に虚しい。目に見える全員に説いて、自分はあんたが想像も出来ない人生を歩んでいるのだと叫びたい。彼氏彼女と言わずに”大切な人”と呼んでいる小手先の言葉選びによる”多様性”の尊重が礼賛される時代に、氾濫させられない叫びを噛み砕きながら、どうにか割り入って行くしかないのだろうか?多様性とは、都合よく使える美しい言葉では無い。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍らで呼吸している事を思い知らされる言葉のはずだ。幸せの形は人それぞれ。多様性の時代。自分に正直に生きよう。そう言えるのは、本当の自分を明かした所で、排除されない人達だけだ。多数派側に生まれたゆえに自分自身と向き合う機会は少なく、只自分が多数派であると言う事が唯一のアイデンティティーとなる。特に信念が無い人ほど、自分が正しいと思う形に他人を正そうとする行為に行き着くのだ。
いつしか、幸福よりも不幸の方が居心地が良くなってしまった。初めから何も与えられず、何を失うかで悩まなくてもいい状態に。
人間の承認要求と特殊性癖者の欲求、その交差点がまさか配信者のYouTubeコメント欄にあるなんて、誰が想像できただろうか。配信者が気付いていないだけで、マイナーなフェチの需要に応える動画を投稿している配信者は多い。
人間は自分の事しか知り得ない。社会とは究極的に狭い視野しか無い個人の集まりで、いつだって、ほんの一部の人の手によって、全ての人間に違う形備わっている欲求の形が整えられていく。
まとも、普通、常識的、自分はそちら側に居ると思っている人はどうして、対岸に居ると判断した人の生きる道を狭めようとするのか。まとも側に居た昨日の自分が禁じた項目に、今日の自分が苦しめられる可能性もある。自分とは違う人が生きやすい世界とは、明日の自分が生きやすくなる世界でもあるのに。きっとこの世界は、まとも側にこれからもずっと居られると信じている人による規制が強まる方向に進むのだ。
多数派の岸に居たければ、多数決で勝ち続けなければならない。そうしないと、お前変じゃないか?と、覗き込まれ、排除されてしまう。”不安”だから周囲を巻き込んで確認し合っている。この世なんて解らない事だらけなのに、解らないと言う事を明かしてはならないのだ。
多様性は人間の道徳感情で幅を広げつつある。果たしてどこまでが、皆が認める多様性となるのだろうか?しかし、”無性愛者”の多様性とは、中々認知されにくいものの様だ。人間ではなく、違う”もの”を対象とする。この世界を感覚的に認知できない人にとっては、その感情的興奮を性的興奮に繋げて解決させようと多数派が理解できない幸福感を自らの性欲と混同してしまうのか?
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