飯島企画業務日誌

『日本の花火』

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おはようございます☀️

 

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(画像の引用先は、画像内に記入されています。)
『日本の花火』
日本の夏といえば花火……。
家庭で楽しむ花火といえば、線香花火などの手持ち花火が人気ですね。昔から庶民に親しまれてきた線香花火は、コストと手間の問題からか国産品は1998年頃から一時期姿を消した。つい最近まで、線香花火の生産地は中国製が当たり前のようになっていましたが、日本の風流を知らない中国製は火玉は小さく持ちも悪いので、と言うか日本の企業が安価を求めて形ばかりの商品を生産して来ましたが、最近、また国産の線香花火も増えています。国産線香花火は高価な分、火花が大きく飛び散るうえ火玉が落ちにくいので、はかなく美しい花火を長く楽しみたい人には人気のようです。
花火の歴史は、どのようなものなのでしょうか?
ルネッサンスの三大発明といわれるのは、羅針盤・火薬・活版印刷ですが、実はこれらすべて、中国から伝来したもの。ヨーロッパで改良されてはいるが、端緒は中国にあるのです。花火も6世紀ごろの中国で生まれ、ルネッサンス期のイギリスで発展しました。
日本で花火の製造が始まったのは、鉄砲伝来とほぼ同時期のようです。どちらも火薬を使用するので、花火の技法も鉄砲と一緒に輸入されたのです。
新しいもの好きで知られる織田信長が花火を目にしていたのかもしれず、もし、本当にそうであればさぞかし喜んだでしょう。
江戸時代になって戦がなくなり、火薬の使い道が激減すると、火薬屋たちは花火を扱うようになります。日本最古の花火大会である、隅田川花火大会が始まったのは、享保18年(1733)。当時は「両国川開き」と呼ばれていた。このときに花火を打ち上げたのは、日本最古の花火業者である鍵屋で、万治2年(1659)に売り出した玩具花火のヒットで、繁盛していたと言います。約150年後の文化5年(1808)、鍵屋の番頭が独立して始めたのが玉屋。これ以降は、両国の川開きで、両国橋の上流を玉屋、下流を鍵屋が担当するなど、ライバルとして、さらに発展したようです。ですが「玉屋」の出火で大火事となり玉屋市兵衛を江戸から追放。「玉屋」は廃業しました。つまり、「鍵屋」から暖簾分けした「玉屋」が存在したのはたった35年間だったそうです。現役の頃から「たまや~」の掛け声の方が多く、その後も花火の掛け声の代名詞として現在に至るのはなぜでしょうか?
ひとつは花火の技術が勝っていたこと。もうひとつは、語呂が良いので掛け声を掛けやすかったこと。そして、江戸っ子気質がそうさせたこと。
こんな狂歌があります。
「橋の上 玉屋玉屋の声ばかりなぜに鍵屋といわぬ情なし」情と「鍵」をかけているようです。「玉屋だと またぬかすわと 鍵屋いい」という川柳も残っています。
現代の「鍵屋」はその後もさまざまな花火を開発して日本の花火界をリードし、現在は女性当主が鍵屋15代目として活躍中です。
音にこだわり、日本古来の花火である“和火”復活に力を注ぐなど花火の魅力を高めていますので、ぜひ「かぎや~」と掛け声をかけてあげてくださいね。
しかし花火は、ただ美しいだけのものだけでは無く。日本人にとって火とは、鎮魂の意味を持つことから。お盆の迎え火や送り火を思いだせば、炎は不浄なものを焼き尽くし、闇を照らすものなので、古来神聖なものとされてきた。「日」も「火」も同じく「ひ」と読むように、太陽に等しい存在でもあり、人々が文化的生活を送るために不可欠なものでもある。だから日本人は、死者を尊び、慰めるために、特別な炎を燃やしたのです。
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