飯島企画業務日誌

『桐生悠々』

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おはようございます☺️

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『桐生悠々』
金沢市にて、貧しい旧加賀藩士の三男として生まれる。
東京府の官吏、保険会社、出版社、下野新聞の主筆などを転々としたのち大阪毎日新聞に学芸部員として入社するが満足な執筆の場を与えられず退社。東京朝日新聞社内で勤務、「べらんめえ」と題した匿名時事批評が評判となる。
明治43年には信濃毎日新聞の主筆に就任した。明治天皇の大葬時に自殺した乃木希典陸軍大将をすぐさま批判した社説「陋習打破論――乃木将軍の殉死」を著し、反響を呼ぶ。1914年(大正3年)には、シーメンス事件に関して政友会を攻撃、信濃毎日新聞社長・小坂順造は政友会所属の衆議院議員であったため対立、退社を余儀なくされる。
同年には新愛知新聞の主筆として名古屋に赴任し、社説およびコラム「緩急車」で信毎時代と変わらぬ反権力・反政友会的言説を繰り広げるも、販売競争に疲れたこともあり退社する。1924年(大正13年)には第15回衆議院議員選挙に無所属で出馬するも落選、落選後は自ら日刊新聞を発行するも1年持たず廃刊、負債だけが残り浪人生活を数年送る。1928年(昭和3年)に、信濃毎日新聞主筆に復帰。再び反軍的な一連の社説を著す。
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陸軍が1933年、関東上空への敵機襲来に備えた「関東防空大演習」を実施すると、①上空で敵機を迎え撃つことは敗北そのもの②敵機の爆弾投下を完全に防ぐことはできず木造家屋の多い東京は焦土と化す――などと批判する記事「関東防空大演習を嗤う」を掲載。これが軍部の怒りを買い、桐生は信濃毎日新聞を退社に追い込まれるが、雑誌「他山の石」を発行し、言論統制に抗議の声を上げ続けた。
人動(やや)もすれば、私を以て、言いたいことを言うから、結局、幸福だとする。だが、私は、この場合、言いたい事と、言わねばならない事とを区別しなければならないと思う。
私は言いたいことを言っているのではない。徒(いたずら)に言いたいことを言って、快を貪(むさぼ)っているのではない。言わねばならないことを、国民として、特に、この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。
言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である。何ぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だからである。尤(もっと)も義務を履行したという自意識は愉快であるに相違ないが、この愉快は消極的の愉快であって、普通の愉快さではない。
しかも、この義務の履行は、多くの場合、犠牲を伴う。少くとも、損害を招く。現に私は防空演習について言わねばならないことを言って、軍部のために、私の生活権を奪われた。私はまた、往年新愛知新聞に拠(よ)って、いうところの檜山事件に関して、言わねばならないことを言ったために、司法当局から幾度となく起訴されて、体刑をまで論告された。これは決して愉快ではなくて、苦痛だ。少くとも不快だった。
私が防空演習について、言わねばならないことを言ったという証拠は、海軍軍人が、これを裏書している。海軍軍人は、その当時に於(おい)てすら、地方の講演会、現に長野県の或(ある)地方の講演会に於て私と同様の意見を発表している。何ぜなら、陸軍の防空演習は、海軍の飛行機を無視しているからだ。敵の飛行機をして帝都の上空に出現せしむるのは、海軍の飛行機が無力なることを示唆するものだからである。
防空演習を非議したために、私が軍部から生活権を奪われたのは、単に、この非議ばかりが原因ではなかったろう。私は信濃毎日に於て、度々軍人を恐れざる政治家出でよと言い、また、五・一五事件及び大阪のゴーストップ事件に関しても、立憲治下の国民として言わねばならないことを言ったために、重ねがさね彼等(かれら)の怒を買ったためであろう。安全第一主義で暮らす現代人には、余計なことではあるけれども、立憲治下の国民としては、私の言ったことは、言いたいことではなくて、言わねばならないことであった。そして、これがために、私は終(つい)に、私の生活権を奪われたのであった。決して愉快なこと、幸福なことではない。
私は二・二六事件の如(ごと)き不祥事件を見ざらんとするため、予(あらかじ)め軍部に対して、また政府当局に対して国民として言わねばならないことを言って来た。私は、これがために大損害を被った。だが、結局二・二六事件を見るに至って、今や寺内陸相によって厳格なる粛軍が保障さるるに至ったのは、不幸中の幸福であった。と同時に、この私が、はかないながらも、淡いながらも、ここに消極的の愉快を感じ得るに至ったのも、私自身の一幸福である。私は決して言いたいことを言っているのではなくて、言わねばならない事を言っていたのだ。また言っているのである。
最後に、二・二六事件以来、国民の気分、少くとも議会の空気は、その反動として如何(いか)にも明朗になって来た。そして議員も今や安んじて―なお戒厳令下にありながら―その言わねばならないことを言い得るようになった。斎藤隆夫氏の質問演説はその言わねばならないことを言った好適例である。だが、貴族院に於(お)ける津村氏の質問に至っては言わねばならないことの範囲を越えて、言いたいことを言ったこととなっている。相沢中佐が人を殺して任地に赴任するのを怪しからぬというまでは、言わねばならないことであるけれども、下士兵卒は忠誠だが、将校は忠誠でないというに至っては、言いたいことを言ったこととなる。
言いたい事と、言わねばならない事とは厳に区別すべきである。
昭和11年6月
(前略)さて小生『他山の石』を発行して以来、国家的に全人類の康福を祈願して孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつゝ今日に到候が時たまたま小生の痼疾咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能はざるやうに相成、やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故、小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も、ただ小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候。
昭和16年9月10日68歳没
この約3か月後、択捉島からハワイ真珠湾へ向けて出撃していた大日本帝国海軍連合艦隊に12月8日の戦闘行動開始命令が伝えられ、大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦した。
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