飯島企画業務日誌

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『90分でわかるカント』ポール・ストラザーン 浅見昇吾《訳》
1、私は何を知りうるか
2、私は何をなすべきか
3、私は何を希望してよいか
4、人間とは何か
そしてはじめの3つの問い、最後の問いに集約される。
人間は理性をもっている。冷静、利口、公正ひいては真理・善・正義といったイメージを含んでいると考えることができる。「純粋理性」は、絶対唯一、究極、完全の法則であるべきである。しかし、そのような尊ぶべき人間の「純粋理性」は、実は、相反する二つの命題を抱えたまま自己矛盾に陥るのだとカントはいう。それが「二律背反~アンチノミー」である。たとえば、人間は自分の裸などは見られたくないと考える。しかし、一方で見られたいという願望がある。つまり「裸=恥ずかしい」という法則に対して、「恥ずかしいから見られたくない」と「恥ずかしいけど見られたい」という、2つの相反する結論が導き出されるのである。ならば、この2つの結論は正しいのか。カントに言わせると、それはどちらも(偽)となる。結果「裸=恥ずかしい」という法則は成り立たない。カントが「二律背反」で伝えたかったこと、それは人間の理性というのは必ずしも完全無欠のものではなく、限界があるということである。理性に絶対の信頼をおいてはいけないという「批判」、それが『純粋理性批判』の意味でもある。カントはそのような理性の欠陥からも、人間は悪の心に染まりやすい性格であることを指摘する。たとえ生まれながらは善であったとしても、悪意ある、もしくは拙劣なる指導者や実例の感化を受けて、悪の心に染まる危険があるというのである。最も親密な友情の間においてすらも、嘘をつこうとする危険があり、最良の友人とお互いに心を開いて付き合う際でも、信頼をほどほどにしておくこと、人間は、自分が恩義を負う人間を憎む危険。恩義を施す人間は、常にこのことを覚悟していなければならない。最良の友人の不幸のうちには、我々を必ずしも不快にしない何かがある危険(しめしめ、と思ったことが本当に無いのか?)したがって、人間は善に向かうように教育されなくてはならないとカントは続ける。人間の意志が善くあるためには、人間は何をなすべきか。それは「法則に従うこと。法則に対して尊敬を持つこと。そして法則とは、道徳法則である」。つまり「道徳」こそが、カント哲学の真意に他ならない。
カントの考える「道徳」は、ずいぶんと厳しい。
カントが道徳のことを「道徳法則」という言い方をするのは、まさに私達が従う道徳が、科学法則のように「どこでも、誰でも、いつでも、当てはまるものでなければならない」と考えたからであり、その形式は「~すべき、~してはならない」という定言命法の形でなければならない。なぜなら、条件付だと法則にならないからである。「もし人から信用されたいのならば、嘘をついてはいけない」という道徳法則があった場合はどうか。しかしこれだと、「人に信用されなくても構わない」という人には通用しない。嘘がまかり通る社会になってしまう。よって、条件に関係なく「~ならば~すべき」の仮言命法ではなく、誰にでも当てはまる定言命法「~すべき」でなければならないのである。幸福という徳についても同様である。人間が幸福であると感じるものには、名誉・健康・金銭がある。これらは善いものだと言われるが、それらが心に及ぼす影響を制御できなければ、人間を奔放に、傲慢にさせてしまう。「善意志」とは、それが何かを達成したり、何かに役立ったりするから「善い」のではなく、それ自体において善いものである。道徳の「徳」という文字は分解すると、「行う、行動する」という行ニンベン、「直、素直」という右上の部分、そして右下の「心」となる。つまり「素直な心で行動する」と読むことができる。
参考文献https://www.mskj.or.jp/report/2956.html 『「カント入門」入門 ~人間とは何か?を問い続けた哲学の巨人~松下政経塾 2021.5.24 05:00』
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